IMFと戦い国民・国家を守ったマハティールに学ぶべし!③:野党指導者アンワルとその「グローバル」人脈

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その②形骸化する民主主義:選挙で選ばれぬ人たちが政治を動かしている
その③選挙で選ばれぬ新自由主義者たちによって売りに出される大阪:大前研一と竹中平蔵の影
その④【地下鉄利権】関西私鉄幹部が大量に大阪市参与に就任していたことが判明。裏で進められる公共財の解体と簒奪。/一刻も早く橋下リコール運動を開始すべし。
その⑤【大阪地下鉄民営化利権続報】在阪マスコミは関西私鉄の事実上支配下にある!マスコミが橋下維新・地下鉄「民営化」問題を報じない理由

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今回の記事は前前回及び前回の記事の続きで、マレーシアの野党連合指導者アンワル・イブラヒム元副首相について書きたい。新たに見つけた資料を読むのに時間がかかり、記事を書くのが遅くなってしまった。
アンワルについて述べる上で欠かせないのはそのグローバル人脈である。アンワルはイスラム主義政党出身のエルドアン・トルコ首相と親しい関係にあるが、その反面、アジア通貨危機の際にIMF専務理事だったカムドシュ、クリントン米国政権のアル・ゴア副大統領(当時)やサマーズ財務副長官(当時)らとも親交があり、そして何よりも驚かされるのは、ユダヤ系のネオコンで「イラク戦争の建築家」であるポール・ウォルフォウィッツ元米国国防副長官・元世界銀行総裁と親友関係にあるということである。アンワルは絶大な人気を誇る一方、イスラム教を国教とするマレーシアにとってシオニスト、イスラエルは敵であり、ウォルフォウィッツたちとの関係からアンワルはユダヤの手先ではないのかという疑念が常に付きまとう政治家である。私もマレーシアにいる友人たちから常に二分したアンワル評を聞かされてきた。非常に評価の難しい政治家である。

[アンワルとIMFとマハティール:グローバル派と国民経済派の戦い]

アンワルは1947年生まれで、先に述べたウォルフォウィッツは1943年生まれ、ゴアは1948年生まれで、この3人はほぼ同じ世代に属する。アンワルはマレーシアの最高学府とされるマラヤ大学を1971年に卒業し、前年に結成されたABIM(マレーシア・イスラム青年運動)の書記長として活躍、若いうちから頭角を現した。都市型中産階級を代表する近代的なイスラムによってマレー人の生活を向上させることを掲げ、青年層の支持を獲得していく。
マハティール首相(当時)はアンワルに注目し、1982年に与党UMNOに迎え入れた。同年行われた下院選挙で当選して政界入りを果たす。それ以降アンワルはマハティール政権下でトントン拍子に出世をしていく。1983年に文化・青年・スポーツ大臣にいきなり就任、1984年には農業大臣、1986年には教育大臣に就任した。1991年には財務大臣に就任、1993年には副首相も兼任するまでになった。マハティールとは親子のような関係であったという。マハティールも自らの後継者にアンワルを指名するつもりであったのだろう。

アンワルが蔵相だった時期に、彼は世界銀行、IMFなどの職務に携わることになり、「グローバル人脈」が形成されていくことになった。アジア通貨危機が進行中の1998年3月にはアンワルは世界銀行-IMF開発委員会議長に就任している。
2007年にイタリアで開催されたれた倫理と経済に関する国際フォーラムを紹介しているエッセイがあり、そのフォーラムで講演を行ったアンワルとカムドシュ元IMF専務理事について触れられている。筆者はこの二人の関係を以下のように紹介している。(なお筆者のマルゲリタ・ムーニーという人は宗教社会学者であり、この逸話もこの論説のテーマである信仰心と倫理の文脈で書かれているということに注意を払う必要がある。政治学関係の論説ではない。)
「ミシェル・カムドシュ元IMF専務理事とアンワル・イブラヒム元マレーシア副首相は共に信心深い信者である。彼らはIMFで働いている際に友人となり、お互いの信仰について語り合い、伝統を異にする(カトリックとイスラム)にもかかわらず多くの共通点を見出した。」

写真:カムドシュIMF専務理事(左)、ウォルフェンソン世界銀行総裁(中)と談笑するアンワル(右)(世界銀行-IMF開発委員会1998年4月17日、AFP)

カムドシュIMF専務理事が1998年1月にマレーシアを訪れた際の記事(New Straits Times 1998年1月16日)では、カムドシュがアンワル財務大臣の打ち出した危機対策を評価していることを述べ、アンワルが政府歳出18%カットや公共事業の中断などの厳しい対策を採ることを発表したことを紹介している。
ところがマハティールは経済危機当初にアンワルが主導したこれらの政策を「アンワル、カムドシュ、ソロス… 1997年通貨危機との戦い」(2011年11月28日)という回想文の中で批判している。少々長くなるがここから引用する。

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以前に私はカムドシュに会ったことがあり、彼は好人物に思えた。財務大臣兼副首相としてアンワルはIMFトップ(であるカムドシュ)にかなりの頻度で会談していた。私は通貨の投機取引は不必要であり発展途上国の経済に打撃を与えるので禁止してほしいとカムドシュに伝えてくれるようアンワルに依頼した。アンワルが私のメッセージをカムドシュに伝えてくれたのかどうかはわからないが、通貨の投機取引を禁止する手立ては全くとられなかった。
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<中略>
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アンワルは国内で「IMFに頼らぬIMF式解決策」と知られるところの政策をやり始めた。しかしながら、ファンダメンタルでは我々は経済の問題には直面していなかったのだ。我々は対外債務を返済するために資金をIMFから借りる必要もなかった。それまでの借り入れは大した額ではなかったし、支払期限の迫ったものは殆どなかったのである。期限の迫ったものであっても、我々は支払うことが可能であった。しかし、我々がIMFから資金を借り入れる必要があるのかないのかということに関係なく、アンワルはマレーシアがIMFの助言を受け入れなければならないと感じたのだ。
我々の経済運営に対する国際的な信用を維持するためには、彼らの望むように経済運営を行い、彼らの言うことに従うべきであるとアンワルは信じていた。我々はまだ病気になってもいなかったのであるが、彼はIMFの薬が国際的停滞という病から立ち直らせることに役立つと考えたのだろう。だから彼は金利を引き上げ、財政支出をカットしたのだ。
その措置は政府職員の給与を支給するための財源を政府から奪ってしまうことになると、私はアンワルに警告をした。彼はまた、不良債権であると認定するまでの債務不履行の期間を6ヵ月から3ヵ月に短縮した。これによって銀行は大量の不良債権を抱え込んでいるということにされ、借り手を倒産に追い込むことになった。ビジネスは減速した。これによって本来の病が訪れたのである。IMFの薬は治療法などではなく、これこそが病の原因であったのである。しかしアンワルはその路線を推し進めたのである。
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Tun Dr Mahathir : Anwar, Camdessus, Soros… Fight the Currency Crisis of 1997’(上の日本語訳はNico。なお、後半部分には危機を打開するためのマハティールらの奮闘が記されており、資料としても価値がある。)

マレーシア国内が深刻な不況に突入していく中、マハティールはアンワルのIMF路線を修正し、経済を立て直すために、1998年1月、国家経済行動評議会(NEAC)を発足させ同評議会に強大な権限を与えて、国家危機に対処した。同評議会のメンバーにはアンワルも含まれていたのだが、アンワルのIMF路線はこの評議会の中で否定され、マハティールが緊急に召集したダイム・ザイヌディン元蔵相や戦略国際研究所ノルディン・ソピーらが評議会を主導し、6週間に渡る集中討議でIMF策とは真っ向から反する対策をまとめていくことになる。中央銀行副総裁も評議会のメンバーに含まれていたが、副総裁は「何らかの理由によって」(マハティール、前出)会合に一度も出席せず、マハティールが資本統制を柱とする緊急経済対策を発表する前日の1998年8月31日に中央銀行総裁と共に辞任している。そして緊急経済対策が発表された翌日の9月2日、アンワルは蔵相・副首相を解任され、その翌日かねてから噂のあった同性愛の嫌疑で与党UMNOを除名される。下野したアンワルは支持者を集め、インドネシアの反スハルト派が用いたスローガンである「レフォルマシ(改革)」を叫んで抗議行動に出るが、それが裏目に出て逮捕されることになる。
アンワルや中央銀行総裁・副総裁はIMF救済策支持派で、カムドシュIMFや米国の隠然たる支持を背景としていた。国家経済行動評議会が発足したのは1998年1月であるが、3月にはアンワルが世界銀行-IMF開発委員会議長に就任している。これはIMFサイドがアンワルを持ち上げつつ彼らの側に完全に取り込んで抜けられなくしてしまうようにする為のものではなかっただろうか。
一方のマハティールはマレーシアの第一線の知性をかき集め国民経済派を形成したと言える。このグローバル派と国民経済派の暗闘が1997年から98年にかけて繰り広げられた。この過程でマハティールは目をかけ手塩にかけて育てたものの、IMF側に取り込まれたアンワルに見切りをつけたと思われる。国民経済派が主導権を握り、中央銀行総裁・副総裁は辞任し、アンワルが失脚することで権力闘争にも決着がついた。

[政界復帰まで:ウォルフォウィッツとの関係]

アンワルは失脚後、2004年に出獄するまで政治に関与していないのだが、逮捕後も米国はマレーシアに公然と圧力をかけ続けた。アンワル逮捕後の11月にマレーシアを訪れたアル・ゴア副大統領はホストであるマハティールの面前でIMF策を受け入れたタイ・韓国・インドネシアを持ち上げ、これらの国々の「民主主義」を高く評価し、反スハルト派及びアンワル支持派の掲げるスローガン「レフォルマシ(改革)」にも言及した。同じときにマレーシアを訪れていたオルブライト国務長官はアンワル夫人のワン・アジザをホテルに招き、彼女を勇気付けた。ニューズウィーク誌は1998年末の誌上において「今年のアジア人」にアンワルを選出した。
翌年の99年アンワルは職権乱用の罪で有罪となり懲役6年の判決を受け服役することとなったが、妻のワン・アジザは国民正義党を結成してその年の総選挙に打って出、ワン・アジザを含む5人が当選した。これがアンワルの率いる野党・人民正義党の起源である。翌年にはアンワルは同性愛の罪でさらに9年の懲役を科せられたが、この罪状に関しては最高裁で覆されて無罪となり、2004年9月に釈放された。
釈放後、アンワルは治療の目的でドイツに渡航するが、それ以降公職追放解除の2008年までイギリスと米国に活動拠点を置く。アンワルはオックスフォード大学聖アンソニー校で教授、米国ジョーンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院SAISの上級客員フェローとなり、同時にジョージタウン大学外国語学科の客員教授も勤めた。また2006年7月にはFoundation For the Future(未来のための財団)という財団の議長にも就任している。
アンワルをジョン・ホプキンス大学SAIS上級客員フェローに迎え入れたのは、恐らくウォルフォウィッツの紹介によってであろうと推測される。ウォルフォウィッツとアンワルの出会いはいつなのか不明である。ひょっとすればウォルフォウィッツがマレーシアの隣国インドネシアで大使をしていた1986年から89年の頃にまで遡る話かも知れない。当時のウォルフォウィッツは文化人類学者の妻と共にインドネシアの文化に魅せられ、インドネシア語を勉強し、アジア通貨危機後に大統領となる野党指導者のアブドゥルラフマン・ワヒドと交流を深めたという。
ウォルフォウィッツは国務省と国防総省の勤務を経て、ブッシュSr.政権で国防次官となり、クリントン政権下では1994年から2001年までジョン・ホプキンス大学SAISの教授・学部長に就任、そこで一時代を築くことになる。ウィキペディアの記述では、ウォルフォウィッツは「ジョン・ホプキンス大学SAISを止まり木にして新たな保守的世界戦略のたたき台を作った」。97年に結成されたネオコン・シンクタンク「アメリカ21世紀プロジェクト」の主導的メンバーとなった。他の主要メンバーには後にブッシュJr.政権で副大統領となるディック・チェイニーや国防長官となるドナルド・ラムズフェルト、国務次官となるジョン・ボルトンら錚々たるネオコンたちが勢ぞろいしており、ウォルフォウィッツと共にイラクのサダム・フセイン政権の打倒を訴えていた。ブッシュJr.政権誕生後、ウォルフォウィッツは国防副長官に就任し、2003年からのイラク戦争を推進した。こうした経緯からウォルフォウィッツは「イラク戦争の建築家」と呼ばれている。2005年6月には世界銀行総裁に就任している。

アンワル(中)とウォルフォウィッツ(右)

アンワルとウォルフォウィッツの親交に関してはそれまで表沙汰になることはなかったのであるが、ウォルフォウィッツのスキャンダルに関連して浮上してきた。ウォルフォウィッツが世界銀行総裁に就任した後、その彼女であったシャハ・リザが世界銀行職員で、行内恋愛が禁止されていることから、彼女のためにウォルフォウィッツが給与を法外な額に引き上げて国務省に出向させた疑惑が持ち上がり(しかもシャハ・リザは米国人ではない)、この際にアンワルが自ら議長を務めるFoundation For the Futureにシャハ・リザを財団に受け入れたい旨を記した書簡を世界銀行宛てに送り、実際にシャハ・リザを財団に受け入れていたことから、アンワルとウォルフォウィッツの親しい関係が知れることとなった。
ウォルフォウィッツとシャハ・リザの関係は1999年ごろにまで遡る話である。シャハ・リザはリビア出身の英国人で、中東の民主運動活動家で、1997年から世界銀行職員となり、99年に正規職員となっている。フセイン政権が倒された後、2004年にはベイルートで北アフリカ・中東地域で自由と改革を推進するための会議を開催している。ウォルフォウィッツが彼女から影響を受けたのか、シャハ・リザがウォルフォウィッツから影響を受けたのか不明であるが、二人はネオコンの掲げる「中東の民主化」なるもので意気投合したことは確実なようである。下の動画はウォルフォウィッツとシャハ・リザの問題を報じるレポートで、ここにアンワルの件も出てくる。

アンワルは2008年4月からマレーシアでの政治活動が可能となり、自身が政界復帰するための活動を始めた矢先の7月、またしても逮捕される。同性愛での告発を受けての捜査であったのだが、告発した人物がアンワル陣営で活動していた人物であったのだ。その人物が自らアンワルと同性愛性交渉を持ったと顔を晒して告発すること自体があまりにもあからさまで馬鹿馬鹿しいものと一般では受け止められ、政権側が送り込んだスパイの仕掛けた罠という見方が支配的で、逮捕後すぐに保釈が認められている。しかしその後アンワルは再び裁判にかけられることになる。この裁判の過程で、意外な組み合わせであるが、アンワルと親しい間柄にあるウォルフォウィッツとアル・ゴアが連名で書簡を発表し、アンワルを擁護している。
アンワルの政界復帰を遅らせるためであろう、与党側はアンワルの政治活動が解禁される直前の2008年3月に総選挙を行った。野党連合はアンワルが出馬できなかったにもかかわらず大躍進を遂げた。そして当選した妻のワン・アジザがアンワルの政治活動が解禁されたすぐ後に議員辞職するという奇策に打って出、同年8月その補欠選挙でアンワルは圧勝し、政界に復帰した。なお新たな同性愛嫌疑の裁判は、2012年1月高裁が無罪を言い渡している。

カムドシュとの関係を見ても、ウォルフォウィッツとの関係を見ても、新たな同性愛疑惑嫌疑という罠を仕掛けられたことを見ても疑問に思ったのは、アンワルが自身の交際している人物たちがどのような背景を持ち、どのような動機で接近してきているのかを確実に把握しているのかどうかということである。ひょっとしたらアンワルは信じやすく律儀な人間であるのかも知れないが、それは政治家としては脇の甘さをも示していると言えるのではないだろうか。
特にユダヤ系のネオコンで、マレーシア国民が反対したところのイラク戦争を計画した張本人であるウォルフォウィッツと親友関係にあるというのは、致命的であるかも知れない。下の動画はBBCが2005年5月に放送したアンワルのインタビューであるが、このインタビューの中でインタビュワーに「あなたがウォルフォウィッツ氏と親友であるというのは信じられない」と鋭く切り込まれ、アンワルはうろたえ気味に親友であることを認めた上で「ウォルフォウィッツ氏と親友であることと、イラク戦争を支持するのかは別問題だ。イラク戦争に反対であることはウォルフォウィッツ氏に伝えてある」と苦しい弁明に追われている。

政治指導者として国家・国民を優先するか、外国の「友人」とのしがらみや約束事に優先権を与えるのかといった決断に迫られる事態があったとして、マハティールは迷わず前者を選ぶだろうことが容易に推測できるのであるが、アンワルの場合は怪しいと感じる。政治家の人物関係や背後関係を見る手法で政治を分析していくと、こうしたしがらみから逃れることができない場合が殆どであると思う。日本人の政治家や学者たちにしてもそうだろう。まだ若いうちに「大物」に目をかけられ、舞い上がってしまい、よくよく判断もできないままにある種の人脈ネットワークの中に組み入れられ、それによって仕事や地位を得たりすれば、たとえ気付いたとしても、もはや逃れられなくなることだろう。
アンワルの最初の大失敗は最大の後見人かつ恩人であるマハティールに国家を左右する重要案件で楯突いたことだと言えるだろう。今は国内にこうした後見人は目に見える形ではおらず、もっぱら国外の「人脈」と自らの支持者しかいないが、それでも「弾圧」を受けてなお政界復帰を果たしたことで、「民主主義の旗手」としてカリスマ性を帯び、国内での支持者は増加していっている。
ちなみに既に引退したマハティールは「もしアンワルが首相になったら、私は外国に移住する」と、冗談なのか本気なのかわからぬ発言をしている。私の友人で地方の政界にも通じたある地元有力者が耳打ちするように、「アンワルが政権を取ったら、国が米国に売られるかも知れない」と言ったのは非常に印象的であった。マレーシアは総選挙が近いうちに行われると見られているが、果たしてどのような結果になるであろうか。

シリーズ:IMFと戦い国民・国家を守ったマハティールに学ぶべし!
前々回の記事「①政治の季節を迎えたマレーシアとマレーシア政治概説
前回の記事 「②IMF「救済策」が明暗を分けた

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