地域主権論あるいは連邦国家論(1) 脱中央集権と脱開発

ドイツ気象局(DWD)(トップページ右側の[Ausbreitung Japan]の右をクリック→次のページの画像[Loop Starten]をクリック→放射能拡散予想閲覧可)
台湾による放射能拡散予測
オーストリア気象地球力学中央研究所(ZAMG)([Neues]をクリック→次のページの新しい日付のニュースをクリック→次のページの一番下[DOWNLOAD]をクリックすると拡散予想閲覧可)
全国の放射能濃度一覧 ・ 水道の放射能濃度一覧 ・ 雨の放射能濃度一覧・ 全国の食品の放射性物質一覧
フランス・メディア・ニュース(サービス終了しましたが、過去記事が読めます)
原子力資料情報室
武田邦彦・中部大学教授ページ
電力総連組織内候補者リストとのこと
脱原発系イベントカレンダー

にほんブログ村 政治ブログへ

今回の記事は前回の続きである。できれば以前の2本の記事をまずお読みいただければ幸いである。

4月13日 末期症状に陥った国とどう向き合い何をなすべきなのか 孫崎亨氏連続ツイート「戦い、敗れし者へ」に思う
4月17日 日本は変わりうるのだろうか?フロンティアなき世界で

私は前回の記事で、以下のように述べた。

————————————-
阪神淡路大震災の後、国はどんどんと新自由主義を推し進めてきたのであるが、それはつまるところ、勝ち組既得権益支配層が癒着してマスコミをも抱き込み、国家国民を食い物にするという構造をさらに酷くした。今回の震災で如実に露呈したのが、力の弱い国民に対しては「自己責任」を押し付けるものの、彼らの側では責任を取らないという代物になってしまったことだと思う。行き場も逃げ場もない中で、貧富の差は驚くほど開き、失意のうちに自殺を遂げる人々が一向に減る気配もなく、そして多くの国民はシステムから振り落とされることに怯えて萎縮し、死んだ魚のような目をして失われた20年を過ごしてきた。民が安心して食べていけない統治システムにこれ以上正統性を認めることができるのか大いに疑問である。日本という国は震災前からすでに壊れてきている。
<中略>
私は庶民の「口舌の徒」なりに、国がこうあればよいのではという希望のようなものを漠然と頭の中で描いている。日本の現状を鑑みたとき、私の考えは日本の従来の方向性とは大きく異なるものであるし、誰がそれを実現するのかという重要な点については全く考慮に入れていないため、そうした国に日本が変わっていくとは到底思えないのであるが、グローバル市場原理主義が行き詰った現在、新たな国家社会モデルを夢想することも無駄ではないと思う。個別具体的な考えではなく大雑把な草案のようなものであるが、機会があるごとに当ブログで皆様にそうした私の馬鹿馬鹿しい「夢」を披瀝したいと思う。
————————————-

ここで断っている通り、これは「夢」であり、日本の現状を鑑みれば、こうしたことが具現化されるとは思ってはいない。また、皆様にすべてに同意をいただきたいと思っているわけでもない。一笑に付していただいても一向に構わないと思っている。ただ、今あるシステムが現実として末期症状を呈した中で、オールタナティブとしての国家社会のあり方を考えていく上で、いろいろな意見が出てくることを期待させていただきたい。

今回の記事ではまだ結論には入らない。また以下の考察は一つに体系化されたようなものではなく、テーマも異なる。自分の考えていることを雑然と並べているだけであり、中には非常に抽象的な議論もある。ただそのような抽象的な議論も新たな国家社会像を考えて行く上での思想的背景ともなるべきものであると思うので、具体的な議論をする前に敢えてそのまま載せることにする。

——————————————–

1)中央集権制の功罪と限界、地方のジレンマ

明治維新によって近代中央集権国家体制が敷かれてからすでに長い年月が過ぎた。1945年の敗戦によってもその構造は崩れることなく、むしろより強化されてきたと言えるだろう。歴史的に見てそれは必ずしも悪い結果をもたらしたとは言えない。中央集権制を確立することで日本はまがりなりにも近代化を達成し、欧米列強による植民地化を免れることができた。しかし軍部や内務省を中心とした官僚および財閥企業・マスコミが一心同体となってファシズム体制が上から推し進められ、太平洋戦争前夜、一時は開花する可能性も秘めていた日本の議会制民主主義はついに死滅した。

戦後GHQによる占領改革で軍部・内務省は解体され、財閥は創業者一族から切り離され、農地改革・教育改革・憲法改正・公職追放などの諸改革が断行された。しかし殆どの官僚機構は無傷のまま維持され、中央集権制そのものは崩れることはなかった。ある意味そのおかげで、戦後復興の局面においても一種の計画経済である政府主導の傾斜生産方式によって比較的スムーズに経済を立て直すことができ、その後も護送船団方式と呼ばれる経済体制で成長を維持し、国民も次第にその恩恵に浴することができるようになった。中央集権制そのものには歴史的に肯定的に評価されるべき面も多い。

しかしそれから時間が経ち、中央集権制および東京一極集中の弊害が目立つようになってきた。霞ヶ関の力はかつてなく巨大化した。自民党一党支配化で、政官財の鉄のトライアングルが作られ、地方は自民党の票田となるかわりに中央から公共事業やひも付き助成金を受けるという関係が構築されてきた。こうして東京と地方は自民党体制下でいわば持ちつ持たれつの共存関係を築いてきた。ダム工事や基地問題や原発の問題にこれが如実に現れている。辛口に言えば、地方も中央にぶら下がることに慣れてしまい、自ら考え自らの足で立つことを模索することすらやめてしまった感は否めない。右肩上がりの経済成長が続いた時代はそれでもまだ機能していただろう。

しかしそうした時代はとうの昔に過ぎ去ってしまった。地方分権の必要性が叫ばれるようになってからすでに久しいが、地方にしてみれば財源も権限もないままでは結局霞ヶ関の言いなりになるしかない。逆らえば佐藤栄佐作・前福島県知事のように国策捜査で失脚させられるのがオチである。先日行われた地方選挙では福島原発事故直後であったにもかかわらず原発肯定派が当選した背景にはこうした諸事情があるのだと思う。地方の苦悩もここにあるだろう。

しかし原発安全神話は崩壊し、政官財学報の原子力利権複合体は取り繕うのに必至になっているのだが、その様子は無責任そのもので醜悪である。エリート支配層が護持してきた無誤謬性神話は原発安全神話の崩壊とともに崩れ去ったのである。今こそ中央集権制からの脱却が求められている。このままズルズルと同じ制度を維持してもろくな結果にはならないことは明らかだろう。だが、この制度が存続することで利権を維持できる既得権益エリート支配層が易々と権限を手放すはずもない。地方も国民もお上にぶら下がる発想ではなく、自分の足で立つ発想と覚悟をしなければならない。地方分権は中央が勝手に上から譲り渡してくれるものではなく、地方自ら求め獲得していく気概がないと、いつまで経っても実現しないだろう。

2)一個人の価値: 巨大な組織に上から牽引されるのか、自ら主体的に参加し下から築き上げるのか

一個人の価値は、属する組織が大きければ大きいほど、通常より小さなものとなる。人間は部品のようなものとなり、歯車にもなれず、ネジや釘ぐらいの存在価値しかなくなる場合もあるだろう。ネジにすらなれない人も多数いる。中にはそうした環境でのし上がって行き、組織の頭脳やエンジンとなる、あるいは自ら組織を作り出し統率する猛者もいるにはいるが、全体で見ればそれはごく限られた小数でしかない。その少数を選出するために過剰なまでの競争が教育段階からすでに繰り広げられているという側面がある。政治を論ずるとき、そのような例外的な少数の成功者を中心にするのではなく、その他大多数の民を中心議題として論ずるべきなのである。

組織が巨大であれば、それだけスケールの大きいことを実現できるのは確かだし、戦後の復興も組織力によって実現した。我々は先人の努力の恩恵に浴してきたのであり、私自身ももちろん感謝こそすれ、それを否定するつもりはない。しかし組織そのものが一個人では全体像が把握できないほどあまりにも巨大化してしまったとき、それは個人の無力感・無関心・疎外感を生み出すと思う。企業もそうであり、政治もそうである。都市部の庶民にしてみれば、政治は遠い世界の出来事であって、身近に参加し、それによって動かせるものであるとの実感からは程遠いものとなってしまっている。そこからは政治的無関心やニヒリズム、あるいは扇動に流されやすくなる体質を生む。

組織が小さければ個人の価値は大きなものとなり、実感ややりがいが生まれる。しかし組織が小さすぎれば、それによって実現できることのスケールは自ずと小さなものとなるだろう。大きすぎず、小さすぎず、個人がその全体像を把握でき、積極的に参加し、役割を得て、実感できるような中庸のサイズというものがあると思う。社会そのものを活性化するには、巨大な組織による牽引というシステムを見直していくべきであると思う。巨大化した企業体と巨大化した官僚組織と巨大化したマスコミとが上の方でつるんで統治し、異端者を徹底排除するようなシステムに夢があり将来があるのだろうか。

3)脱「開発」へ: 開発・自然から隔離される人間・歪曲される環境問題

開発が進むにつれ、人は自然と共に暮らせなくなってきている。これには2つの意味がある。1つ目は、開発によって自然破壊や資源の枯渇が進んでいることである。2つ目は人間が物理的に自然から切り離されて都会で暮らすことを強いられる傾向が強くなっていることである。環境問題について論じるとき、1つ目だけが問題視され、2つ目は殆ど度外視されているように思う。

近年の環境問題に関する議論は、その第1点目も有耶無耶にされて、いつのまにか「CO2による地球温暖化」という実際は未だに科学的論争に決着のついていないものに置き換えられてしまい、CO2排出を減少できれば環境問題は解決できるかのような錯覚に世界中の人たちは陥ってしまっている。

バイオ燃料がCO2の排出を減らすなどということで、熱帯雨林のジャングルは破壊されて広大なオイルパーム・プランテーションとなり、そこに住む野生動物が絶滅の危機に瀕しているといった事実はほとんど問題視されていないように思われる。また米ブッシュ政権がバイオ燃料助成にとうもろこしなどの穀物を含めるとした途端に、それが投機の対象となって高騰し、世界の食糧市場を不安定なものにすることに寄与したこともあった。

ここにあるのはエコ・ビジネスで利益をあげようとする姿勢であって、そのビジネスを遂行している人間が本当に環境問題について心配しているのかどうかは甚だ疑わしい。この構図を考えると非常にグロテスクである。現在行われているのは、CO2に矮小化された環境問題を技術革新によって乗り切ろうとすることと、それをマーケットの俎上にのせて競争させようという悪あがきのような行為であると思う。ここには先に挙げた第2点目の視点は全く欠落している。

自然保護は、従来の開発型資本主義といったものとは本来相容れない性質のものであると私は思う。根本的に環境問題を解決しようと真剣に考えるのならば、弱肉強食型資本主義路線を修正し、脱「開発」を進め、化石資源に依存しない自然エネルギー利用に切り替えていくしかないと思う。原子力発電は環境にやさしいどころか、かえって有害で危険極まりないことがチェルノブイリ、スリーマイルの事故を経て、現在まだ進行中の福島原発事故を経験するに及び、確認されたに等しい。ここから何も学ばないのであればもはやつける薬もないと思う。

ヴォルフガング・ザックス『地球文明の未来学』(新評論、2003)には脱「開発」に向けたヒントが書かれている。結論は単純明快である。物質主義的な生活を質素なものに改めよということである。序文から引用する。

—————————-
どれほど想像力を働かせようとも、世界のすべての人が、現在支配的な化石燃料・経済主導型の開発モデルの分け前にあずかれるはずはない。仮にあずかれるとすれば、今ある生態系はきっと姿を消してしまうだろう。はっきり言おう。従来の開発モデルの無節操な成功は失敗より始末に悪い。だがそれならば、経済発展にこれまで参加できなかった世界の八〇%の人々にどんな代案を提案できるだろうか。
重要な課題はふたつあると考えられる。第一は、「西」型開発主義を見直し、その隠された前提や技術信奉、経済成長の強迫観念、物的生活改善志向を検証すること。そして第二は、「西」型開発モデルとの決別を認めねばならないことである。
その代わり私たちは、別の文化を迎え入れる道を探さなければならない。環境への影響が少ない先進技術を創造する、執拗な富の蓄積を打ち切る、手段は質素だが結果が豊かな生活様式を認める、等々。
—————————-

この本が出版されて8年になるが、その間に歴史は逆の方向へ動いてしまった。世界中でグローバリズム市場原理主義が猛威をふるい、今そのあと片付けができないような状況になっている。環境問題がこの本の指摘するような方向で解決に向けて動いていたならば、現在のようなCO2に矮小化された茶番劇は繰り広げられていなかっただろうと思う。我々は時間を無駄にしている。

<続く>

↓↓1日1回応援クリックをぜひお願いします!書くパワーをください!
にほんブログ村 政治ブログへ
Advertisements
This entry was posted in ファシズム, マスコミ問題, 生活, 社会, 政治, 政治・時事問題, 日本, 日本社会, 民主主義. Bookmark the permalink.

One Response to 地域主権論あるいは連邦国家論(1) 脱中央集権と脱開発

  1. Pingback: 地域主権論あるいは連邦国家論(2) 不毛な二項対立からの脱却・地域独立と霞ヶ関解体 | 書に触れ、街に出よう nico's blog

Comments are closed.